牧之庵から閉店の御挨拶 御案内の通り、牧之庵は「令和元年(2019年)8月15日」をもちまして完全閉店となりました。      お客様に支えられて17年間、誠に残念では御座いましたが暖簾を下ろすことになりました。 これまでに賜りましたご厚情を心より感謝申し上げ、謹んで御礼の御挨拶を申し上げます。本当にお世話になりました。幸か不幸か、牧之庵の閉店の翌年から新型コロナが現われ、5類に移行したとは言え未だ終息の気配がありません。そんな中で、ロシアによるウクライナへの侵攻、パラリンピックが始まったばかりの日本だったのに、未だ終わりが見えません。どうなってしまうんだろう? 強権的独裁者の出現は国連の機能不全を生じ、中東でも戦禍を被り続ける。不安だね~怖いよね~.   そんな不安定な情勢の中で、新年度は世情安定を祈りつつ迎えたかったが、正月早々から能登の大地震。別件、近況は自民党の裏金、派閥問題で大騒動。兎に角、能登だけは、何があっても最優先、一時のロスタイムは許されないぞ! 先ずもって、この度の「能登半島地震」に遭われた能登の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。       お亡くなりになられました多くの御霊に謹んでご冥福をお祈り申し上げます-合掌ー   トップ画像を替えました。これは、我が家の裏の畑でトウモロコシ(2回目)の種蒔きをする孫. 題して「ジジとトウモロコシの種をまく孫(小学2年生)」2022.5.29の写真をつかいました。

*小学校の恩師

日を同じくして(17日)、友人諸侯が来る前には、小学校の担任の先生が、奥さんと悴さんとでお越し下さっていた。
記憶が定かならば、4〜6年生の3ヶ年間、この先生から教わった。
取り分け、図画工作(当時は、こう呼んでいた学課)に力を入れ、版画や絵画が上手な先生だった。
後に自分が絵画や物作りが好きになったのは、この恩師の影響が大きいし、当時の記憶として最も印象に残っている先生だ。
年賀状は毎年、得意の版画でほのぼのとした絵を彫り込んで送ってくださった。
どういう訳か、ここ何年かは年賀状をいただけないでいた。
ところが今日、10年ぶり位で拝見した恩師の姿。
髪の毛は真っ白、自分自身で歩けない様、僕が誰だか分からない有様、余りにも変わり果てた先生を見て愕然とした。
漸くのことで玄関を入って、廊下越しに客間に向かうが、一人では歩行困難、悴さんが肩で腕を抱えて添え歩き、やっとの事で椅子を置いた席につかれた。
「先生、お久しぶりです。よう来てくださいました」、だが、しっかりした反応がない?
ちょっとおかしいな?奥さんに尋ねると、数年前にある宴会の席で倒れて、それ以来、今のような状態になってしまわれたとのこと。
奥さんが「あなた、ここは古川(戸籍上は、大木六新田だが通称、古川という)ですよ。
この部落に教え子がいますか?」「ああ、古川には◯◯◯◯君がいる」と、真っ先に答えてくださった。
「先生、僕が◯◯ですよ。分かりますか?」「ああ、◯◯君だよ」、何か、分かった様な分からない様な、そんな感じだった。
失礼して、ご注文の蕎麦を茹でてお出しした。
奥さんも、牧之庵のことなど何も知らないできたらしい。
古川に蕎麦屋があるそうなんで来た程度、まして先生は、教え子の蕎麦屋だなんて事は、知る由もなし。
「ああ、おいしい」、そう言いながら、不自由の手でゆっくりと召し上がれた。
ババが差し上げたアイスコーヒーを飲みながら奥さんに先生との関わりを説明した。
担任だったこと、年賀状のこと、社会人になってからの先生との出合い、関わり等々を。
時々先生も相づちを入れる。
時々、分かるらしい?
お帰りになられる時、お車までお送りした。
先生曰く「◯◯君に宜しく伝えてください」だって?やれやれ、分かっちゃいないみたいなんだね〜・・・・・・・・
ちなみに先生は、80歳になられたとか。
それもそのはず、目の前の教え子が還暦を迎えたんだもんなあ〜。
またまた脳裏を過ぎる、同期会の案内文「びっくりするほど遠くに来ちゃった!」
写真は、最近何年かの先生から頂いた年賀状。もう、版画は彫れないなあ〜。年賀状もこれが最後かも・・・・・・