僕が会社勤めを辞めてから5年、そば屋を始めてから4年余が過ぎた。
この間に以前の仕事関係、友人関係等でお世話になった大切な方々がこの世を去られた。
生を受ければ、誰しもが辿る宿命とは申せ、特別の思いを持っていた方とのお別れは本当に辛い。
かなりの時間が経過してなお、心の悲愴感は癒えることがない。
ことある毎に懐かしく、思い出される。
「おーい、元気でやってるか?今度そっちに行ったら声を掛けるよ」あの頃の元気な声が聞こえてくる。
去年の今頃は、どうしていたんだろう?ふと、パソコンで打つ日記帳をめくって見た。
そこには、以前大変お世話になった、ある方の弔いに行って来た事が記してある。
「雉啼くや 日和田の里に 身はとどめ」昨年の5月1日に詠んだ辞世の句。
この句を詠んで僅か2日後に79歳の生涯にピリウドを打たれ、この世を去った人。
こんな商売をしてから、周りからの情報が遮断され、何ヶ月も経つのに知らずにいた。
知らされて、直ぐに弔いに行ってきたんです。氏は埼玉の人、幼少の頃に両親に先立たれ、祖父母に育てられたとお聞きした。
満州の大学を出られ、僕の産まれた頃には、地元で教鞭を執られていました。
その後、何カ所かの会社に勤務されたそうですが、地元で不動産会社を設立、成功を収め、ここ魚沼地方に温泉宿を開いたんです。
地元では、病院を開いたり、社会福祉法人でケアハウス、老人介護施設等を設立、死の間際まで、特養老人ホーム建設に向けての新しい事業にロマンを追い求めていました。
ここ魚沼の温泉宿は、今やこの地方を代表する立派な宿に育て上がりました。
僕と氏との出会いは、好意にして下さった、ある工務店の社長のご紹介で始まりました。
十数年前のことです。
勤務先では土木部を任されていたんですが、個人的に造園が好きだったから、専業としても少しは取り入れ始めた頃だったでしょうか。
露天風呂が需要を帯びて、その宿でも造る計画が持ち上がりました。
その工務店の依頼で、僕が計画を依頼されたんです。計画資料を持って、工務店の社長のお供をしたのが初めての出会いでした。
その後、社長が埼玉からお見えになると、必ずと言っていいほど、工務店の社長に呼び出され、一緒に夕食のお付き合いが始まりました。
ある時は、身の上話。ある時は、経営哲学。
僕と同い年のお嬢さんがいらっしゃって、病院を始めた時のこと、ある商売をして儲かった話、病におかされて療養生活を余儀なくされたこと、この地で、温泉お宿を始めた頃のこと、何度も、同じことを聞かされるほど、ご一緒にご馳走になりました。
殊の外、計画立案が気に入っていただいて、その後も他のメンテナンスのお仕事もいただくようになりました。
何度かお会いしているうちに、親子ほど違う年の差もあってか、知らず知らずに、氏の人間性に魅力を感じたんです。
ご苦労をして成功を収めてきた人だけあって、金銭面は非常に厳しく、請負金額の取り決めには、苦労しました。
「宿屋って商売は、これだけ掛けても、その分として直接見返りがあるってもんじゃないんだよ。
客観的にお客さんに喜んでいただいて、ゆっくりと評価を得て、結果が出るんだ」そうおっしゃられて、次々に目新しい事を取り入れる。
いろんな事を教えていただきました。
数年後、4000坪の広大な敷地に、数百メートルの廊下を配し、400坪の平屋建、離屋敷を増築しました。
広い池と庭、大きな滝、初めて手掛けた設計施工の大庭園でした。
それから4年後、この宿の一番奥の山際に、大露天風呂建設が始まりました。
露天風呂に使った石は、信州秋山郷から探しに探した銘石です。
僕が勤めを辞めずに、氏とお付き合いをしていたら、もっと、もっと可愛がられ、教えられたんでしょうが、別れはもっともっと耐え難いものになっていただろう。そう思うと、少しは気休めになる。
1年忌が過ぎてなお、氏が埼玉から駆けつける様な錯覚を憶える。
思えば牧之庵の開店後、心配していただいて、おかみさん等とお越しいただいた。
出来れば、それなりの形が出来てから、お呼びして一言お世辞でもほめていただきたかった。
それも叶わぬ夢。
でも、氏の声が聞こえる。
☆もったいぶって書いてきたが、考えれば隠すことはない。何も隠す必要は無いことに気付いた。
氏とは僕が可愛がられ、尊敬申し上げてきた「南魚沼市六日町温泉、温泉お宿 龍言」の元社長「故宇津木敏夫」氏です。