牧之庵から閉店の御挨拶 御案内の通り、牧之庵は「令和元年(2019年)8月15日」をもちまして完全閉店となりました。      お客様に支えられて17年間、誠に残念では御座いましたが暖簾を下ろすことになりました。 これまでに賜りましたご厚情を心より感謝申し上げ、謹んで御礼の御挨拶を申し上げます。本当にお世話になりました。幸か不幸か、牧之庵の閉店の翌年から新型コロナが現われ、5類に移行したとは言え未だ終息の気配がありません。そんな中で、ロシアによるウクライナへの侵攻、パラリンピックが始まったばかりの日本だったのに、未だ終わりが見えません。どうなってしまうんだろう? 強権的独裁者の出現は国連の機能不全を生じ、中東でも戦禍を被り続ける。不安だね~怖いよね~.   そんな不安定な情勢の中で、新年度は世情安定を祈りつつ迎えたかったが、正月早々から能登の大地震。別件、近況は自民党の裏金、派閥問題で大騒動。兎に角、能登だけは、何があっても最優先、一時のロスタイムは許されないぞ! 先ずもって、この度の「能登半島地震」に遭われた能登の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。       お亡くなりになられました多くの御霊に謹んでご冥福をお祈り申し上げます-合掌ー   トップ画像を替えました。これは、我が家の裏の畑でトウモロコシ(2回目)の種蒔きをする孫. 題して「ジジとトウモロコシの種をまく孫(小学2年生)」2022.5.29の写真をつかいました。

*芋焼酎を飲み過ぎて

☆結婚式があって
昨日は分家の結婚式があった。
久しぶりに、若いカップルを拝ませて貰って、心が華やぎ、幸せな気分を味わった。
午前中に結婚式を終え、午後は1時から披露宴、主催者側の要望もあって、宴会場に入って直ぐにビールが出された。
花婿、花嫁が入場する前に、まして乾杯もしないうちからのビールには、些か抵抗があったが、「どうぞ、お召し上がり下さい」とお酌された。
「もう飲んでも良いの?」お隣のテーブルのお客さんも半信半疑で回りを伺った。
「本日は、リラックスしていただけるようにとの、ご両親様のお心遣いで、お飲み物が用意してあります。
どうぞお召し上がり下さい」と、進行役のお嬢さんのアナウンス、そんならばと、皆さんが一斉に飲み出した。

やがて、ご両人の入場だ。
実は、乾杯の発声を頼まれていたんだね。
すぐに、係の方が席に来て「ご本家様でいらっしゃいますか、真っ先に乾杯となりますので御紹介がありますからお願いします」ちょっぴり焦ったね〜。
普通であれば、主賓の祝辞があって、宴会に入る直前に乾杯でしょう?ビックリして言っちゃった「いきなり乾杯でビックリしました」ってね。
最近の披露宴のスタイルも、暫くご無沙汰しているうちに随分変わったようだ。
それに、媒酌人のいない結婚式が多くなったね〜。まあ、諸説あろうが、兎に角変わった。
最初に乾杯の発声って事になると、挨拶の前口上も多少は考えなくちゃいけないしね。
今まで何回かこのスタイルの乾杯の発声を経験してるから、それなりには考えていたから幸いに焦りは無かったがね。
それに、昔のような形式的な事が無くなったから、そんなに深く考えなくても良くなったって事だね。
余興もヤングパワーで圧倒される。さながら友人だけの世界、ご両人も一緒になって楽しむって感じなんだね。
もっとも、当事者にとっては一番幸せで、思い出に残る事だろうがね。
でもね〜、両家の叔父さん、叔母さん、ちょっと年配の親戚や会社の恩師なんかは、蚊帳の外、ただ圧倒されて賑やかな中で、静かに飲んでるって感じなんだね。
もっとも、昔スタイルの祝い歌のカラオケや、おばさん連の趣味の踊りでは、変わり映えが無くて味気ないが、どういうもんかね〜。
全くロートルの出番が無いことに些か我慢できなくて、またまた飛び入りで潜入「ご要望の曲があるか探しますので、ちょっと待って下さい」あったね!いつも定番で歌った「祝いしぐれ」
前口上も入れた「いかに時代が変わっても、子を思う親心は永遠に変わりません。この歌は、娘を嫁がせる、そんな親の心境を詠ったものです」ってね。
ちらっと、嫁がせたお母さんを伺った。うつむいて上手でもない歌を聞いて下さっている様だ。
出しゃばりが、辛うじてロートルの出番を作った。それが良かったのか、どうなのかは、定かでないが?
なが〜い披露宴が終え、会場の車で婿方の実家に到着。
そこにもご馳走が用意されていて、身内だけの慰労会が始まった。
弟も一緒にお呼ばれしていたから、我等二人は宴会から、ず〜っと芋焼酎の飲みっぱなし。
かなりメーターが上がってしまった。
「明日の朝は、区の田圃の草刈りだよな」そんな話も出たりして。


★やばい!共同作業を忘れてた!
今朝は順調に目覚めた。
あれだけ飲んだが、焼酎のお陰で悪酔い無し。いつもと変わらぬ朝?いつもの様に、いつもの仕事を難なくこなす。
やばい!今朝は6時から草刈りだった!やはり飲み過ぎた証、すっかり忘れていた!いつもの様にはいかなかった。
もう30分を過ぎていた。もう終わったな?
急いで軽トラで田圃に駆けつけた。案の定、作業は全て終了、村人が集まって野良会議の真っ最中。
体裁悪いったらありゃしない。「いや〜、ご苦労さんでした」頭を掻き掻き「申し訳ない、申し訳ない」昨日、僕に何があったかは皆知っている。
飲み過ぎて忘れてしまったこともね。すんなり会議に加わった。これが農村の良いところ「ほらみれ、飲み過ぎたがだっぺ」それですべて帳消しだ。
後で聞いたら、村のガラクタを処分する話だったらしいんだね。


☆ガラク

そのガラクタとは、昔共同で使っていた備品なんだが、味噌煮釜と大豆の潰し機、庚申膳(お庚申様に使ったお膳と椀だが、説明すると長くなるので、後日機会があったら紹介)等のこと。
牧之庵の親爺は、ガラクタに興味あるから、勝手に引き取って処分しろって事なんだそうだ。
蕎麦を打ち終えたころ電話が入った。
区長からで、今日は日曜日のために、区の委員で物置の整理をしている。
重い物もあるので、みんなが手伝うから車で取りに来れないか、って事なんだ。
急いで軽トラで取りに行ってきたんだ。
選んでいては失礼なので、取りあえず外に出した物は、ゴミのはてまで積み込んで持ってきた。
仕事を終えてから、そのガラクタを降ろして、不要の捨てるゴミを処理したんだね。
←左の写真は、ガラクタを積んできて、不要のゴミを降ろして残った物。
左から、膳と椀20人分、皮のない太鼓、味噌作りに使った道具(味噌の材料となる大豆を煮る釜と、煮た大豆を潰す機械)



 
          大豆を煮る釜                            大豆を潰す機械
釜の燃料は薪を燃やしていた。程良く煮た大豆は、潰し機(右上)を使って味噌にするが、上部の筒状の容器に大豆を入れ、手で回して大豆を潰して送り出す。
潰れ出される大豆は、出口の円形の板に無数に開けられた小粒の穴(写真下)から、ちょっと太い麺のように送り出される。
それを丸めて(味噌玉と呼ばれる)板の上に並べ発酵してカビが生える頃まで放置する。
適当に乾き、発酵したら適量の塩と麹、水分を加えて攪拌し冷暗所で寝かせるんだね。
いや待てよ?塩と米麹をまぶしてから味噌玉を作るのかな?
詳しいことは、良く覚えていないんだが、昔の農家では、こうして自家産の味噌を作っていたんだよ。

その頃は、田圃の畦畔にも大豆を沢山作っていたから、材料は豊富にあったんだね。
世が変わって、田圃区画整理で大きくなると、作業用に使う畦畔には大豆を植えられなくなり、機械も小型で電動の物がでたり、市販の味噌も手頃な価格で手に入るようになり、次第に自家生産する農家が減ってきたんだね。
この機械は、区で所有し共同で使用していたんだよ。1回の使用料も決められていて、僕の記憶にある当時は、500円だったね。
一冊の使用ノートが付けてあって、それを見ると、最終の使用者は昭和63年に一軒だけ。
それを最後に、この道具も役目を終えてしまった。
我が家では、58年を最後に市販の味噌に切り替えた様なんだね。
以来ず〜っと市販味噌を使い続けてきたんよ。
ババが嫁いできて暫く経ってから、農協の婦人部ってのがあってね、生活指導の一環で自家生産味噌が推奨されてきたんだ。
全ての製造設備は農協が備え、自家生産の米を持参して麹を作り、大豆も有るだけ持って、不足分は農協から購入して賄った。
時期が来ると農協が希望者を募り、割り振られた日程に合わせて作業をするんだね。
自分で希望する数量に合わせて仕込み容器持参、後は持ち帰って醸成させるんだ。夏の土用が来ると天地返しをするんだね。
この形が暫く続いてきたんだが、数年前(10年も前だったろうか?)に、食品安全衛生法に触れるってんで、専門の農業法人がそっくり負かる様になったんだね。
以来、実作業は無くなり、仕込み味噌だけ注文で届く。
天地返しだけは前と同じでババがするんだね。以来、今日に至るってわけよ。
もう一つ、皮が破れた太鼓と、膳椀が有るんだが、長くなるので続きって事にするよ。