※ツルウメモドキ&トウガラシ(タカノツメ)
訪れし季節の贈り物 赤色の来訪者たち
17年間の長きに渡って、体に染み込んだサイクル習慣は俄に捨てられないようだ。
深まりしこの秋、いつものように何事もなく訪れて、何事もなく繰り返される習慣。
幕引きをしたこの秋だが、体は勝手に動き出す。
もう、クルミは要らないはずだし、ツルウメモドキも店内に飾る必要が無くなった。
トウガラシ(タカノツメ)の編み込みも、お客様へのお裾分けがなくなったから自家で使うだけのもの。
そうは申せど、17年間に培った習慣はそう簡単には変えられない。
この時期が来た。体が勝手に動き出す。
毎年、拾ってきた「クルミ」だが、どうしようもなく在庫が増えて始末に困っている。
だけど、長年の習慣は恐ろしいもんだ。全く必要ないのに体はクルミを求めて山に行く。
ツルウメモドキと、トウガラシも同じ事。
もう店内には飾る必要がなく、お客様への半強制的な譲与もないはずなのに必要以上に作り上げる。
そこには、そば屋をやめて充分すぎるほどの自由時間を弄ぶご老体が居てござる。
それに、まさかそうキッパリと店を閉じようとは思ってもいなかったんで、南蛮(タカノツメ)は例年通りの量を栽培してきた。
それに、ツルウメモドキは自家採取ができるようにと、ここ数年間に木を育ててきたから山に行かずして自分家の庭先で調達できる。
だから、今年の秋に至っては何の躊躇いも変更もなく、極必然の為り様で事が運んでいる。
だけど、結果的には無駄な作業。
最終的には、「骨折り損の草臥れ儲け」なんじゃ。だけど、貧乏性(いや、貧乏の)のジッチャマには、くたびれ儲けがしたいんじゃがね?
それに、量こそ違うが、そば屋をやる前からしてきた作業、自家用に多少なりとは必要なんじゃがね。
貧乏性(いや、貧乏の)って、どうしようもないね。
必要以上に調達して、その大半は半強制的な譲与(ゴリ押し)となる。
だけど、それなりに手間暇掛かる作業量だが、仕事(換算)じゃないからできること。
そう、仕事なら、こんなクソ難儀までしてしたくないよ。
これまでも、よう他人様に申されてきた。
「こんなに、手間暇掛けて難儀してきたんだから、朝市なんかに出品して売ったら如何なの?」
「馬鹿言うなよ! クソ難儀して作ったり、拾ってきたもんを売るくらいなら、遊んでるほうが増しじゃよ」。
金はないし貧乏性(いや、貧乏)だけど、気持ちまでは落ちぶれてないよ。
正真正銘の貧乏だけど、貧乏性だけにはなりたくないね。気持ち貧乏は最低。