牧之庵から閉店の御挨拶 御案内の通り、牧之庵は「令和元年(2019年)8月15日」をもちまして完全閉店となりました。      お客様に支えられて17年間、誠に残念では御座いましたが暖簾を下ろすことになりました。 これまでに賜りましたご厚情を心より感謝申し上げ、謹んで御礼の御挨拶を申し上げます。本当にお世話になりました。幸か不幸か、牧之庵の閉店の翌年から新型コロナが現われ、5類に移行したとは言え未だ終息の気配がありません。そんな中で、ロシアによるウクライナへの侵攻、パラリンピックが始まったばかりの日本だったのに、未だ終わりが見えません。どうなってしまうんだろう? 強権的独裁者の出現は国連の機能不全を生じ、中東でも戦禍を被り続ける。不安だね~怖いよね~.   そんな不安定な情勢の中で、新年度は世情安定を祈りつつ迎えたかったが、正月早々から能登の大地震。別件、近況は自民党の裏金、派閥問題で大騒動。兎に角、能登だけは、何があっても最優先、一時のロスタイムは許されないぞ! 先ずもって、この度の「能登半島地震」に遭われた能登の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。       お亡くなりになられました多くの御霊に謹んでご冥福をお祈り申し上げます-合掌ー   トップ画像を替えました。これは、我が家の裏の畑でトウモロコシ(2回目)の種蒔きをする孫. 題して「ジジとトウモロコシの種をまく孫(小学2年生)」2022.5.29の写真をつかいました。

*塩沢の文人

鈴木牧之は240年程前に塩沢に生まれ育った。
当時では異色で働きながら筆を執る田舎の一流作家だったのです
。越後縮の仲買商、鈴木屋に生まれ、反物を持って各地を行商に出歩いていた。
遠く五十余理もの道程の江戸にも、100反ちかくの、ちぢみ反物を背負って行商に行ったのでした。
2.3ヶ月の滞在期間中、行商の合間をぬっては書を学んだり、紀行を書いたりしていた。
江戸や西国の雪の少ないところに住む人々に郷里の雪国の暮らしぶり、雪に纏わる様々の事柄を紹介したい。
当時は出版するということは並大抵の作業ではなかった。
なにしろ版木をおこしてから手刷りまで、気の遠くなる程の年月と出版費用、熟練された技術を要する。
まして田舎者で作家でもない商人が出版するなど夢のまた夢、一般的には不可能なことだった。
しかし、そこが牧之の偉人たるゆえん、堅固たる意志を貫き通したのです。
まずは江戸の著名な文壇、山東京伝に出版を依頼、承諾されるも出版元との費用交渉で中座。
数年後、京伝の門弟である滝沢馬琴里見八犬伝は有名な著作)に再度の夢を託したが、これも挫折。
時節が過ぎて約10年、三度目は天下の名画家、岡田玉山(絵本太閤記)に交渉、内諾を得るも翌年没す。
さらに10年、近隣の地に来訪中の鈴木芙蓉を自宅に呼び寄せ承諾させたが、これまた江戸到着後に没したのです。
それでも牧之は諦めなかった。それからさらに数年後、牧之は一度断れた馬琴と再び文通を始めたのです。
出版の約束もされ張り切って補足資料の収集行脚に精を出したのです。
ところがある日、右耳が難聴となり江戸に治療に行くことになったのです。
この時『北越雪譜』の表題は馬琴に依って名付けられていました。
上京した牧之は出版の準備が馬琴の手に依って順調に進んでいるものと期待して訪問した。ところが、意に謀らず全くの手付かずだった。
さすがの牧之もすっかり落胆してしまった。
すっかり有名作家になった馬琴は「南総里見八犬伝」の著作に追われて、それどころではなかった。
鈴木牧之も還暦を迎えていた。そんなある日、突然、山東京伝の弟の山東京山から出版の誘いの手紙が届いた。
以前、馬琴に頼んであり、長い交際の義理から断ったが、京山のあまりの熱心さに牧之は馬琴に打ち明け、ついに京山に任せる事になりました。
しかし、送り続けた沢山の原稿、絵画は何一つ返してもらいません。
なんと4回目の原稿を始めから書き直し、次々に京山に送った。天保八年(1837)ついに『北越雪譜』初編の上中下3巻が発売。
本は大評判となり江戸を中心に全国に売れ、ベストセラ-になった。
さらに6年後に二編の春夏秋冬四巻が発売。
命ある限り刊行を続け、七十二歳で多彩な生涯を閉じました。