鈴木牧之は240年程前に塩沢に生まれ育った。
当時では異色で働きながら筆を執る田舎の一流作家だったのです
。越後縮の仲買商、鈴木屋に生まれ、反物を持って各地を行商に出歩いていた。
遠く五十余理もの道程の江戸にも、100反ちかくの、ちぢみ反物を背負って行商に行ったのでした。
2.3ヶ月の滞在期間中、行商の合間をぬっては書を学んだり、紀行を書いたりしていた。
江戸や西国の雪の少ないところに住む人々に郷里の雪国の暮らしぶり、雪に纏わる様々の事柄を紹介したい。
当時は出版するということは並大抵の作業ではなかった。
なにしろ版木をおこしてから手刷りまで、気の遠くなる程の年月と出版費用、熟練された技術を要する。
まして田舎者で作家でもない商人が出版するなど夢のまた夢、一般的には不可能なことだった。
しかし、そこが牧之の偉人たるゆえん、堅固たる意志を貫き通したのです。
まずは江戸の著名な文壇、山東京伝に出版を依頼、承諾されるも出版元との費用交渉で中座。
数年後、京伝の門弟である滝沢馬琴(里見八犬伝は有名な著作)に再度の夢を託したが、これも挫折。
時節が過ぎて約10年、三度目は天下の名画家、岡田玉山(絵本太閤記)に交渉、内諾を得るも翌年没す。
さらに10年、近隣の地に来訪中の鈴木芙蓉を自宅に呼び寄せ承諾させたが、これまた江戸到着後に没したのです。
それでも牧之は諦めなかった。それからさらに数年後、牧之は一度断れた馬琴と再び文通を始めたのです。
出版の約束もされ張り切って補足資料の収集行脚に精を出したのです。
ところがある日、右耳が難聴となり江戸に治療に行くことになったのです。
この時『北越雪譜』の表題は馬琴に依って名付けられていました。
上京した牧之は出版の準備が馬琴の手に依って順調に進んでいるものと期待して訪問した。ところが、意に謀らず全くの手付かずだった。
さすがの牧之もすっかり落胆してしまった。
すっかり有名作家になった馬琴は「南総里見八犬伝」の著作に追われて、それどころではなかった。
鈴木牧之も還暦を迎えていた。そんなある日、突然、山東京伝の弟の山東京山から出版の誘いの手紙が届いた。
以前、馬琴に頼んであり、長い交際の義理から断ったが、京山のあまりの熱心さに牧之は馬琴に打ち明け、ついに京山に任せる事になりました。
しかし、送り続けた沢山の原稿、絵画は何一つ返してもらいません。
なんと4回目の原稿を始めから書き直し、次々に京山に送った。天保八年(1837)ついに『北越雪譜』初編の上中下3巻が発売。
本は大評判となり江戸を中心に全国に売れ、ベストセラ-になった。
さらに6年後に二編の春夏秋冬四巻が発売。
命ある限り刊行を続け、七十二歳で多彩な生涯を閉じました。