22日の定休日以来、閉店時間(14時)を待ち構えて、お昼を食べるや作業所に行って昨年の豪雪で壊れた箇所の修繕作業にはまっている。
実はこの建物、良くも悪しきも僕にとっては思い出のいっぱい詰まった存在なのだ。
農村青年、夢をいっぱい膨らませていた頃のこと。
農家の一般的な並みの長男は、農業を継ぐことが生まれ落ちた時からの定め、高校は農業高校と決められていた時代。
当時は農業構造改善事業と言われ、農政はこれ一色で「稲作+α」が流行語、米を主軸にα(アルファー)に何かをプラスして安定した農業収入を得て専業農家を育成しようという方針だった。
構造改善事業とは、文字通り農業形態を構造的に改革改善しようとした政策。
時代は「昭和40年」頃の事。僕等の住む「中之島地区」という地域は、昭和44年頃から「農地区画整備」が始まり、それまでの不揃いの狭い圃場から1枚30アール(3,000㎡)の圃場へと整備が始まった。
例に漏れず、農業高校を出て、プラスアルファーの選択に迷ったあげく「養豚」を選ぶことにした。
この豪雪過疎の町、園芸とては市場、需要が見込めない、酪農(乳牛)は牧草地がなく自由時間がない。
養豚を選んでは見たが専門的には浅く学んだ程度で実体験がない。
本格的に飼育するには無理な話、武者修行に出ることになった。ちょっと遠いが新潟市の近くの旧巻町で「養豚」の修行をした。
全寮制でこの寮で二十歳を迎えていた。
修行を終えて昭和44年7月、制度資金を借りて待望の豚舎を建てた。当初は順調で軌道に乗ったかに見えた、その後、豚舎を増築した。
さてそれからが運の尽き、飼料はすべてが購入飼料、飼料がみるみる高騰してきた。
所詮、資源のない日本、原料の殆どが輸入飼料だ。養豚に限らず畜産経営は大打撃を食らった。
餌の高騰に肉価格の低迷、公害問題も出始めていた。殆どの養豚家は姿を消して行った。
滞った借財に己の身を投げる農家もいた。
溜まっていく未収金の額、これ以上の回収は不可能だ!やむなく断念することになった。
近所の友人と二人で稲作に軸足を移し受託農業でやることにした。
圃場も大きく整備中だし、新潟県は米所、これからの農業は大型の機械化で耕作面積を増やす事だと張り切った。
農場の名前も「富隆農場」と決めた。二人の名前から一文字ずつとって命名した。
相棒も酪農に夢を抱いていた。怖い物知らずで肩で風を切っていた世代だった。
豚舎だった建物には、乾燥機に籾摺り機、トラクターに田植機、コンバイン等々の稲作機械が代わって入った。
当時コンバイン(稲刈機械)は、この町には殆ど見られなかった。
メーカーが直々にデモンストレーション、珍しがって野次馬が集まってくるほどだった。
しかし、世の中はそう甘くは出来ていない。その時に生きた「時代背景」と「時の運」が結果に相当影響する事を知らされた。
その後も、この作業所は克明に見届けてきた。見るに忍びない老朽化した建物になったが・・・・・・・・・。続く