牧之庵から閉店の御挨拶 御案内の通り、牧之庵は「令和元年(2019年)8月15日」をもちまして完全閉店となりました。      お客様に支えられて17年間、誠に残念では御座いましたが暖簾を下ろすことになりました。 これまでに賜りましたご厚情を心より感謝申し上げ、謹んで御礼の御挨拶を申し上げます。本当にお世話になりました。幸か不幸か、牧之庵の閉店の翌年から新型コロナが現われ、5類に移行したとは言え未だ終息の気配がありません。そんな中で、ロシアによるウクライナへの侵攻、パラリンピックが始まったばかりの日本だったのに、未だ終わりが見えません。どうなってしまうんだろう? 強権的独裁者の出現は国連の機能不全を生じ、中東でも戦禍を被り続ける。不安だね~怖いよね~.   そんな不安定な情勢の中で、新年度は世情安定を祈りつつ迎えたかったが、正月早々から能登の大地震。別件、近況は自民党の裏金、派閥問題で大騒動。兎に角、能登だけは、何があっても最優先、一時のロスタイムは許されないぞ! 先ずもって、この度の「能登半島地震」に遭われた能登の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。       お亡くなりになられました多くの御霊に謹んでご冥福をお祈り申し上げます-合掌ー   トップ画像を替えました。これは、我が家の裏の畑でトウモロコシ(2回目)の種蒔きをする孫. 題して「ジジとトウモロコシの種をまく孫(小学2年生)」2022.5.29の写真をつかいました。

*うどん、そば、それぞれの世界



イヤ〜、あっちいない!
今日は一日ムンムン、ムシムシ。大地が焼け焦がれて、熱気がム〜ンと襲いかかる。
こんな時の厨房は最高!グラグラと煮えたぎる茹で釜の蒸気、高温に熱せられたフライヤーの油、厨房には冷房装置がないから、窓は全開なんだ。
時折、網戸越しに北風が入るが、その風も生温い風で、なんの足しにもなりゃせんよ。
またまた、今年も両腕の内側がムズ痒くなってきたよ。そう、汗疹が始まったようなんだね。
掻く汗と、茹で釜からの蒸気を浴びて、これからの季節は汗疹がビッシリできて、真っ赤になるんだ。そいつが、茹で釜の蒸気に晒されるから、もう、最高の気分よ!暑くて、痒くて、そりゃ〜最高よ!
そば打ちも難しくなってきたね。
朝打ちは、まあまあそれなりに満足できる出来映えだが、午後からは湿度が上がって悪戦苦闘、神経を使って微調整するんだが、やはり高温多湿下は難しいよ。
僕は、夏には強く好きな季節なんだが、そば打ちの時だけは嫌いになったね。
満足のそばが打てないからね。何時も、うどんを先に打って寝かしてから、そばを打つんだね。
そば打ちが終わった頃に、うどんが、程良い伸し加減になるんだよ。
うどんも、そばも、伸して畳んで、暫く冷蔵庫で冷やしてから切るんだね。
こうすると、グルテンが活性化して、程良いシコシコ感がでるんだね。
それに、切り口に角が立つんよ。ピシャッと切り口が整うと、見たくれも、食感も良いんだよ。
こんな事言うと、うどん屋さんにどやされるが、そばに比べたら、うどんはズ〜ッと楽だね。
何たって、そば粉ほど神経質に扱わなくて済むからね。そば粉は大変よ、特に湿度には悩まされるんだよ。
この時期、出来不出来は、極端にあらわれるんだよ。
同じ材料を使って、いつもの工程で、そばを打つんだが、打ち上がったそばは、全く違った出来映えなんだね。
かと言って、うどんが簡単だと言うんじゃないんだよ。
極めたうどんは、そば以上に難しいんだろうね。
ただ、素人が打つのには、うどんの方が、出来不出来の差が少ないって事かな?
そばを打つときに、小麦粉を繋ぎに使うよね。
元来、そば粉と、うどん粉は性質が異なるんですね。
そこには、含まれる蛋白質澱粉のそれぞれの働きが異なるところにあるんだね。
まあ、難しい話はさて置いて、現実的なお話をしましょうか。
蕎麦屋には、うどんも一緒に打つ店が多いんだけど、うどん屋に、そばを出す店は殆ど無いでしょう?
そうなんですよ、まあ、蕎麦屋は繋ぎに小麦粉を使うでしょう。
だから、単品でも打ってみようか?って、気持がでるんじゃないの。
うどん屋は、そば粉なんか全く必要ないから、そう言う発想にはならないんじゃないの?
僕なんか、最初が蕎麦ではまっちゃったから、うどんの世界は全く素人なんだけど、うどんは、うどんで奥が深いんじゃないかな?
全く別の世界、うどんも、蕎麦も、だから双方難しい世界なんだ。
ただね、これだけは言えるんじゃないの?うどんは、足で踏めば踏むほど腰が出て、美味しくなるって言うでしょう。
あれって、ホントは嘘だとね?必要以上の、こだわりと、過信の世界じゃないの?
よう分からんが、理論的にはそれ以上は同じ(要は、無駄な手間)って事。
そばも同じ、要するにポイントが重要なんだって事かいな?



そりゃそうと、昨夜は塩沢祭り、最後の花火で締め括った。
例年は、梅雨の最盛期で、雨に惑わされながらの打ち上げだったが、昨夜はスッキリした空模様、最高の打ち上げ日和だったね。
それぞれの思い、願いを一発の花火に託し、祈り、感謝する。
娘が呟いた「私のちっちゃい頃は、大きな花火がドンピシャ上がり、それは見事な物だったけど、最近は少し寂しいね」だってさ。
確かに、バブルの最盛期に比べたら、そりゃ〜比較にならないが、現実の厳しい中でも、継続して夜空に描く花火、時世を反映してはいるが、それはそれで美しく、価値があるんだろう?